【知っていますか?】多摩区ゆかりの鎌倉武将「稲毛三郎重成」
多摩区を拠点とし、鎌倉時代に活躍した武将「稲毛三郎重成(いなげさぶろうしげなり)」をご存じでしょうか。
このページでは、謎多き武将といわれる重成について紹介します。
ぜひ、多摩区にある重成ゆかりの地を訪ねてみてはいかがでしょうか。
1 生い立ち
・ 平安時代末期に武蔵国(現東京都、埼玉県、川崎市、横浜市)の最強・最大の武士団「秩父氏」の一族に 生まれました。
・ 父は小山田有重であり、5人の子の3男なので「三郎」。重成は当初「小山田重成」を名乗っていました。 秩父一族の多くの名前には「重」がつきます。
・ 従兄弟は秩父党の有力者である畠山重忠です。石橋山の合戦や平家討伐の戦いにともに参戦しています。
2 戦乱の世を生きた強い武将
・ 荘園や牧場の管理者として秩父から小山田荘(町田市)に進出、さらに川崎稲毛荘へと支配地域を広げて いきました。
・ もともと平氏に属していましたが、頼朝挙兵後、他の東国武士団と共に頼朝に従い、源氏の武将となり ました。
・木曽義仲の追討、一の谷の源平合戦、奥州藤原氏の征伐など、多くの戦いに参戦し、功績をあげました。
・源頼朝の有力な御家人として召し抱えられ、現在の多摩区一帯の領主となりました。
・枡形城の城主となり、廣福寺に館を構えたと伝えられています。枡形城は多摩丘陵の丘の上、下を多摩川 が流れる天然の要害。いざ鎌倉の時には鎌倉防衛の最前線として重要でした。
3 北条政子の妹を妻にする
・源頼朝の正室・北条政子の妹を妻に迎え、頼朝と義兄弟となって強い絆で結ばれました。
・妻との婚礼の時、鎌倉から来たお付きの者が唄った祝い唄「これさま」、「はつせ」、「五反田節」など の古民謡が今も多摩区で伝承されています。
・頼朝上洛の時、妻危篤の知らせを受け、頼朝から名馬を賜って妻のもとへ駆けつけましたが、まもなく 息を引き取りました。
・妻の死を悼んで入道となり、菅の極楽寺(現在の薬師堂)で念仏三昧の日々を送りました。
・妻の死後、供養のため相模川に橋を新造しました。頼朝が橋供養に臨席した帰路に落馬して、それが基で 亡くなりました。
4 源頼朝の有力御家人・重臣として活躍する
・頼朝の上洛、鶴岡八幡宮五重塔落成式、富士の巻狩、日向薬師の参詣など、常に頼朝のそばで主君を 警護し、重臣として支えていました。
・弓の名手で、牛追物という行事で小牛を射止め、頼朝から褒美をもらいました。
5 悲運の最期
・頼朝の死後、将軍を補佐する立場の北条氏が権力を握り、頼朝以来の源氏の一族を次々と消していきまし た。鎌倉幕府内部の権力闘争が激化していきました。
・1205年に鎌倉幕府の有力武将・畠山重忠が謀反の疑いをかけられて二俣川で戦死しました。
・北条氏の陰謀で、畠山氏を陥れたのは稲毛三郎重成の計略だとされてしまい、鎌倉で討たれて悲運の最期 を遂げました。
6 多摩区内にある稲毛三郎重成ゆかりの地
(名称をクリックすると地図があるページが閲覧できます)
・枡形城跡
枡形城跡の碑が枡形山展望台付近に建っています。稲毛三郎重成や鎌倉幕府の栄枯盛衰を詠んだ句碑 「馬場あともやかたのあとも秋の風」があります。
【住所:枡形6-26-1】
・廣福寺
木造の稲毛三郎重成像や墓(五輪の塔)があります。重成の館跡とされています。
【住所:枡形6-7-1】
愛妻の死を悲しみ念仏三昧の日々をおくった場所です(極楽寺の後身の寺)。
【住所:菅北浦4-16-2】
稲毛三郎重成が薬師堂の前身の極楽寺を建てた時、児童に舞わせたのが始まり。 県の無形民俗文化財として現在も伝承され、毎年9月に披露しています。
【住所:菅北浦4-16-2】
・小沢城跡
稲毛三郎の子、小沢小太郎(小沢次郎重政)の居城です。
【住所:菅仙谷1-4】
資料提供:稲田郷土史会